軒天を張ってみよう②
軒天(軒の天井)にフローリング材(床材)を張るオレ。
「フローリング」の意味わかってるのか、と。
このままじゃいずれ天井に床暖房でも入れかねない。
自分のことが心配です。
ブログさえ始めなければ誰にもバレずに済んだのに、とか一瞬頭をよぎったが何を今更。
こうして書いて面白がってるコトで何かと救われてるし。
この頃のオレは「わからないから誰かに聞いてみようかな?」とか思わない。
「えっ?なになに、どういうコト?意味わかんない」って言われるに決まってるからだ。
その道のプロや詳しい人に聞けば、正しい方法とか正しい材料と施工法を教えてもらえたのかもしれない。
でもそれは自分が作りたいイメージとかけ離れる可能性があるし、素人なりに何日も悩み考えたアイデアは笑われた上にボツになるかもしれない。
(ボツにはもちろん相応の理由はあるが)
散々親身にアドバイスをもらってから「あ、それ却下しました」とか悪くて言えなそうだし。
せっかく頂いたアドバイスだからと、その通りやって建物としてはオッケーでも、自分の描いたイメージ通りにならないのなら何のためのセルフビルドか、と。
そんな自分の殻に閉じこもり時期。ATフィールド全開。
ウチの場合は最初に親方(ヨメ)と二人わいわい言いながら選んだイメージありき。
(無理なことはハナから承知です)
イメージに近づける為にどうすればいいのか、自分に出来るコト出来ないコトをずっとずっと、たった一人で考えてココまでやってきた。
(あ、親方(ヨメ)も時々一緒に。考えるコトに関しては時々だけど・・ね・・。)
今までだって散々ヤバいコトしてきたもんね。
特に屋根とか。あと屋根とか、屋根とか、あああ、煙突とか。そういえば忘れてたけど開口部とか。思い出しちゃったよ・・・。
そう考えれば、ココにきて軒天とか壁材のチョイスくらい大したコトじゃないわ。
と、「オレ・・もしかして・・今・・何か大きな間違いをアレかな・・」と不安で仕方がないオレを、自分で必死に慰めながら鼓舞して(やっぱり何度聞いてもしっくりこない)フローリングを軒の天井にせっせと張り続ける。
一面張り終えて建物の歪みに気づく・・。
あ、嘘です。ホントはもっと前から知っていました。だって目で見て歪みがわかるもん。
写真だと分かりにくいが、奥と手前で隙間が違う・・・。
mmとかの単位じゃなくcmの単位で。
ま、今更どうにもならなーい \(^o^)/
てか、このフローリング材だってなんか反ったりしてるよ?
木ってのはそーゆーものだよね。反ったりねじれたり。
しかも今は大丈夫でも「後で伸縮します」とか脅されてるし。
それが木。それが自然素材。
そんなん使ってmm単位で正確に出来るか!
もうね、メートル単位で間違ってなきゃいいや。
実のところ目で見て分かっていたあの歪みは、この先、軒天張ったり、胴縁つけて、外壁材張って、とゴテゴテ上に足していけば、いろんな誤差が混ざり合って歪みも段々薄まるかなと淡い期待もあった。願いにも等しい期待だった。
何だか悪化して・ま・す・・よ・・・。
そもそもあの透湿防水シート(オレ曰く奇跡の素材)も、あんな風に内側に折り曲げてよかったのかどうかわからない。
水が透湿防水シートを伝って流れてきたとしよう。
アレそのまま折り込んである方向に水行くんじゃね?
ああああ。もうそんな事に気づくと心配で心配で夜しか眠れない。
あと、
目で見て気づかず油断してたが、何気にコッチの面の方が歪みが大きい気がする。
マジか・・?
フローリング材も1820mmの長さだとぴったりハマらないのも出てきて、そんな時は短くカットして細切れで叩き込む。
そのせいで次の列もぴったりしない、という何かの歯車に完全に巻き込まれた被害者オレ。
叩いて力ずくで押して親方(ヨメ)に「はやくっ!オレが精一杯押してるうちに!今だ!」とビスを打ってもらう。
ケーキ入刀ごときを夫婦の共同作業とか片腹痛いわっ。コレこそが夫婦の共同作業だわっ!と、ちょい情緒不安定な感じに・・。
今後わずかな伸縮にすら耐えてくれそうにない無垢フローリングのぴっちり施工・・・。
でももう張っちゃったもん。ガンガン叩いてぴっちりと。このキツキツの状態から伸縮してみやがれってんだ。
ハガキ2枚分とか知ったことか。
(でも実際に伸縮でエラいコトになったら、オトナなのに泣きますねオレ。しかもフローリング材を外に使っちゃってるわけだし・・)
緑のテープはダウンライト付けるのに柱のない位置のマーク。
電気屋さんに「柱見えてるうちにマークしといた方がいいよー」と言われて張った。
あぶねー。
そういう2手3手先がよく見えず、夢中で目の前のコトを進めちゃうのが素人たる所以。
成長してねーなぁ。
セルフビルドは絶対的に自由だ。
何を選んで、どうやったっていい。
だが、自由だぁぁと浮かれて選択した結果が必ずしも上手くいくとは限らない。
その選択の結果はどうあろうと全て自分で責任を負うのだ。
一旦始めてしまえば、望もうが望むまいが「自由ですよ。さあ自由に選びなさい。ホラホラ」と自由を強要されている感覚に陥ることすらある。
それはサルトルの言う「人は自由の刑に処せられている」の「人」を「セルフビルド」に置き換えた感じで。
自由になりたくないかーい。どうすりゃ自由になるかい。自由っていったいなんだーい。
君は思う様に生きているかーーい